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メッセージ >
聖書の学び
Title
第21課 「悪い行ないから立ち返りなさい」
Speaker
堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
Date
2009-05-22
読むみことば: エレミヤ25:1-5
覚えるみことば: 第一ヨハネ1:7
参考にするみことば: ガラテヤ5:19-21
教育目標
神に答えと祝福を受けるためには、私たちの中にある悪を捨てて、罪から完全に立ち返らなければならないことを知る。
今日、神を信じているという人の中にも、真理のみことばどおり行なわないで、自分の思うまま生きている人がまことに多いです。ここでは神からご覧になって悪い行ないの結果は何であり、また、立ち返る時に下さる祝福は何か調べてみます。
1. 悪い行ないから立ち返ってこそ救われる
<エレミヤ25:1-5>では、主のみことばが預言者エレミヤに臨んで、ユダの民に向かって悪い行ないから立ち返るように言われました。当時、北イスラエル王国はすでにアッシリヤによって滅ぼされた後でした。ところが、ユダ王国までその悪い行ないのために神の激しい怒りが臨もうとしているので、涙の預言者エレミヤがこれをもどかしく思い、悪い行ないから立ち返らなければならないと大胆に宣べ伝えたのです。
神が最も嫌われたのは姦淫でした。ここで「姦淫」とは、神を信じて従いなさいと言われたのに、それとは反対に神を捨てて、むしろ石と木で作った他の偶像を拝むことを言います(エレミヤ3:8-10)。神が他の神に仕えたり、偶像を拝んだりするのは罪だと言われたにもかかわらず(出エジプト20:3-5)、彼らはみこころに背いて、反対のことをしたのです。また、ユダの民が彼らの人生で神の栄光を現すことを願わなくて、さまざまな罪を犯すことを神は喜ばれませんでした。それで、主のことばがエレミヤに臨み、エレミヤは23年間、彼らの罪を指摘して「立ち返りなさい」と言い続けましたが、彼らはむしろエレミヤを殺そうとしました(エレミヤ38:4-6)。
今日、家庭、学校、職場、その他の社会生活においても、立ち返らなければならないことが非常に多くあります。家庭を考えてみれば、私たちはみな家族の一員として、各自に要求されることがあります。「互いに親切にしよう」とか「互いに喜ぶことをしよう」などです。ところが、そうならないので、同じことを何度も言って嫌気がさしたり、かんしゃくを起こしたりすることがよくあるのです。
たとえば、夫が毎日職場の同僚や友だちとつき合って、酒に酔って家へ帰ってきたら、妻や家族はどれほど苦しむでしょうか。これは家庭だけでなく、神と人との関係でも同じです。現代社会を見れば、罪があまりにも満ちているので、人は罪に染まって、詐欺、姦淫、殺人、暴行、麻薬、誘拐、人身売買など、数えきれないほど悪いことが行なわれています。これらの行ないは当然捨てなければなりません。
それでは、信仰のある人には悪い行ないがないのでしょうか? そうではありません。<ガラテヤ5:19-21>に「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」とあります。つまり、信仰があっても肉の行ないをしているなら、救われないのです。
この他にも、聖書のあちこちに、神を信じていると言っても救われない場合が書かれています(第一ヨハネ5:16、ヘブル6:4-6、ヘブル10:26、マタイ7:21、マタイ25章)。それで、旧約の預言者やイエス様やその弟子たちがいつも「罪を捨てなさい」と強調したのです。ですから、私たちは悪い行ないから立ち返って、救われなければならないのです。
2. エジプト王パロから得られる教訓
<出エジプト記>にエジプト王パロが登場します。当時、イスラエルの民はエジプトでつらい奴隷生活をしていました。民の叫びが神に届いて、モーセが彼らを救い出す者として遣わされます。神はモーセを指導者にして、イスラエルの民をエジプトから連れ出して、乳と蜜の流れるカナンの地に導こうとされたのです。それで、モーセとアロンはパロに神の奇蹟を見せて、神が自分たちを遣わされたことを知らせます(出エジプト7:9-10)。それでもパロがモーセの言葉を聞かないので、神はパロが悟って立ち返れるように、エジプトに十の災いを下します。
第一はエジプトのすべての水が血になる災い、第二はかえるの災い、第三はぶよの災いです。第四はあぶの災い、第五は疫病の災いであり、第六は腫物の災いです。第七は雹の災い、第八はいなごの災い、第九はやみの災い、第十は初子の災いで、命まで取っていかれるのです。
パロは第十の災いにあった後に、ようやくイスラエルの民がエジプトから出て行くことを許しました。しかし、すぐ心が変わります。神はすでにパロの心が変わることをご存じだったので、イスラエルの民が急いで出発できるように準備させておかれました。エジプト人もみな、今はイスラエルの民が早く出て行ってほしいと願いました。ところが、実際にイスラエルの民がすべて出発すると、パロは心が変わって、戦車に乗ってイスラエルの民の後を追いかけました。その結果、葦の海を渡っていたエジプト人は戦車と一緒にみな沈んでしまいました。
それでは、私たちがパロから悟らなければならないことは何でしょうか? 神のみこころを知って従えば祝福であり、反対に従わなければ災いが臨むようになるということです。神が「立ち返りなさい」と言われたとき、すぐ立ち返れば損失が少ないのですが、立ち返るのに時間をかけるほど、多くの損失があるのです。
3. 悪い行ないから立ち返る時に臨む祝福
私たちが立ち返る時は、真実に立ち返らなければなりません(第一ヨハネ1:7)。一度心から立ち返ろうと決めたら、そのとおり行なっていかなければならないのです。世の人はある事を決心しても、三日坊主になることが多いです。しかし、神の子どもたちは聖霊が心のうちにおられるので、祈って上から恵みと力を受ければ、決心したことが守れます。ところが、立ち返るようでいて、また立ち返らないを繰り返したなら、これは本当に立ち返ったのではありません。
聖書には、たとえ神に罪を犯しても、悟って直ちに立ち返った人として、ダビデ王が記されています。神はダビデが訓練を受けることを許されましたが、立ち返ると再び祝福してくださいました。ダビデ王はウリヤの妻と姦淫の罪を犯しただけでなく、策略をめぐらして、正しい人であるウリヤを殺す罪まで犯します(第二サムエル11:2-27)。しかし、預言者ナタンが罪を指摘すると、直ちに悔い改めて、再びそのような罪を犯しませんでした(第二サムエル12:1-23)。ダビデ王はこのために大変な訓練を受けますが、これによって立派な王になれる器を備えるようになりました。
ヒゼキヤ王はどうだったでしょうか? <第二列王20章>には、ヒゼキヤ王が死ぬ病気になったことが記してあります。預言者イザヤが来て、彼が死ぬと伝えました。その時、彼は絶望したり、自暴自棄になったりしないで、かえって顔を壁に向けて、大声で泣いて神に祈りました。すると神は、ヒゼキヤ王がたましいを砕いて罪を告白したことを受け入れて、寿命を十五年も加えてくださり、アッシリヤ王の侵略から町を守ろうという約束までくださいました。たましいを砕いて罪を告白し、立ち返ったら、かえって大いに祝福してくださったのです(ルカ15:1-22)。
このように神に罪を犯したら、それを完全に悔い改めて断ち切ることが本当に立ち返ったということなのです。神が東の方へ行きなさいと言われたのに、西の方に向かっているなら、完全にその道から元に帰って、東の方へ行かなければなりません。それなのにまた西の方に行くなら、どうして立ち返ったと言えるでしょうか。
身近な「悪い行ない」の例として、すべてのことに感謝できなくて、時には不平を言って恨むこと、祈らないこと、約束しておいて守れないこと、心に決めたことを行なえないことなどがあります。このようなことをやめようとしてもできないのは、本当に立ち返ったのではないからです。本当に過ちを告白し、断食して祈ったら、行ないで現さなければなりません。その時に神の恵みと憐れみと赦し、憐れみと答えが与えられるのです。
したがって、心に決めたことや口に出したこと、または思ったり働きかけられたりしたこと、約束したこと、このようなことを完全に行なって、すべてにおいて神に栄光を帰しますように。
* まとめと適用
1. 厳しい現実の前で、または自分の利益の前で、もっと良いものを手に入れようと移り変わったことはなかったのか、顧みてみましょう。
2. はたして一日のうち、どれほど神様のことを思って、みことばを聞いて読み、昼も夜も口ずさんでいるでしょうか?
3. 私たちの人生で、悪い行ないから立ち返って祝福された証しがあれば、分かち合ってみましょう。
* 今週の課題
神の限りない赦しを伝えている聖書の箇所はどこにあるか、探してみましょう。
* 「用語」を知って力にしましょう!
「腫物」とは?
はれもの、またはできもののことだが、聖書では、命にもかかわる不治の病気として表される。エジプトに下された災いの他にも、ペリシテ人がイスラエルから奪った神の箱を置いたために、アシュドデの人々、ガテの人々も、腫物で打たれた(第一サムエル5:6-12)。また、神の許しがあると、サタンはヨブを悪性の腫物で打ったことが記されている(ヨブ2:7)。
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