黙示録講解 | 信仰を測ると | 創世記講解
大聖殿は、ただ多くの人が集まって礼拝できる大きな建物でなく、宇宙万物を創造してつかさどられ、誉れと賛美をとこしえまでも受けるにふさわしい神を拝むために、この地上に建てられる最高の聖殿である。神は旧約時代にも、ソロモン王を用いて美しい聖殿を建てるようにされ、これで天下に神が栄えあるお方であることを表すようにされた。旧約時代には、神の民が律法を行いとして守ることで救われた。ソロモンが建てた聖殿も、民が律法に従って行いとして神を礼拝した聖殿だった。 ところが、新約時代にはイエス様が愛で律法を全うされて、私たちはイエス・キリストを信じることによって救われるようになった。聖霊を受けることによって、行いとしてだけなく、心でも神の律法を守れるし、神の愛と善を心に耕して、まことの子どもとされることができるようになったのである。このような新約時代に神が望まれる聖殿は、行いだけでなく、信仰と愛によって建てられる聖殿だ。神は、神に似せられた子どもたちが聖なるきよめられた心で神を愛するがゆえに建築する、まことの意味の聖殿を望んでおられる。それで、神は旧約時代の聖殿が破壊されることを許され、今は信仰と愛によって、新しいまことの意味の聖殿を建て上げることを願われるのだ。
大聖殿の構造には、人間耕作の摂理についての霊的な奥義、神の善なることとうるわしさ、広大な知恵と御力など、多くの意味が込められている。旧約時代にモーセが幕屋を建てた時や、ソロモン王が聖殿を建てた時のように、神は大聖殿の規模と構造などを細やかに教えてくださったが、今後神ご自身が成し遂げていかれるだろう。 大聖殿は、一番外側に12本の大きい柱が取り巻いていて、柱の間にはそれぞれ7本の小さい柱が立てられているので、柱の数は全部合わせれば96本になる。大聖殿は天国の新しいエルサレムの模型である。12本の大きい柱は新しいエルサレムの城壁にある十二の土台石(黙示録21:19-20)を象徴し、ミルク色に輝く、曇りのない美しい大理石でできている。柱の一番上には、大理石で彫刻された花が柱を取り巻いて飾られている。花びらは5枚で、花の真ん中には新しいエルサレムの十二の土台石を飾る宝石がはめ込まれていて、ライトに照らされるたびに五色に輝く光を放つ。柱と柱の間には、十二の真珠門のように12の大きい門があって、十二の真珠門を御使いたちが守っているように、どの門にも大きい御使いが二人ずつ彫刻される。門と門の間の壁面には、新しいエルサレムに関するみことばを彫るようになる。だから、まるで新しいエルサレムの都の門を見ているようなので、聖徒たちはさらに新しいエルサレムを望んで、恵みに満たされるようになる。
大聖殿の本聖殿は円形で、一番外側に立っている12本の大きい柱の、向かい合っている柱から柱までの長さ、すなわち、直径は600メートルだ。これは、新しいエルサレムの都の長さも幅も高さも一万二千スタディオン(韓国の単位では六千里)であることを意味する。また、建物の高さは地下20メートル、地上40メートルで、合わせて60メートルである。また、聖殿中央に十字架塔を立てるが、その高さが10メートルだから、全体の高さは計70メートルだ。大きい柱の間には、小さい柱が7本ずつ立てられる。七は完全数であり、神が六日間で天地万物を創造して、一日安息されたことを意味するので、7本の小さい柱を立てるということは、神が大聖殿を建てることでこの地上の人間耕作をすべて完了されたことを表す。 7本の小さい柱は、神が初めになされた創造のみわざを順序に従って表現するようになる。例を挙げれば、第一の柱には、光の創造を表すために、闇に輝く夜光のように、またはプリズムを通って広がる七色の虹の光のように、まぶしい光が全体的に流れ出るように柱全体を飾る。第二の柱には、天を創造して、大空の上の水と下の水を分けられた過程を象徴する装飾と紋様が描かれる。第三の柱には、ぶどうのつると実などの美しい植物を彫刻し、第四の柱には、太陽と月と星を彫り入れる。第五の柱には、各種の魚と鳩などの鳥を彫り入れる。第六の柱には、牛や羊などの家畜を彫り入れ、アダムとエバの姿も彫刻して入れる。第七の柱は神のお心を表現するが、黄金とあらゆる宝石を使って、美しい紋様を彫り入れるようになる。 人が想像力を総動員しても、実際の大聖殿とは違いがあるが、これは大聖殿が人の限界を超える神の知恵と御霊によって建築されるからだ。このように、大聖殿は神が祝福してくださったあふれる物質で黄金、宝石が用いられて華やかに建築されるので、これ自体だけでも新しいエルサレムの美しさが感じられるようになる。大聖殿は、見るだけでも創造主の神の威厳と栄光を感じて、大聖殿を慕って出て来る全世界の数多くの人々が創造の摂理について悟り、神に栄光を帰してほめたたえるようになる。 神は、ご自身を信じて心から愛する子どもたちの手を通して、神の栄光を現す大聖殿が建築されることを望まれる。大聖殿はお金や技術で建てられるのではなく、信仰と愛によって建てられる聖殿だからだ。