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聖書の学び メッセージ > 聖書の学び
聖書の学び
Title
   信仰の量り(4) 「救われるための信仰の一段階」  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   
Date
   2013-03-04


読むみことば: 使徒2:38-39
覚えるみことば: ヨハネ1:12
参考にするみことば: 第一テサロニケ5:19
教育目標: 信仰の量りの中で最も低い段階である、救われるための信仰について調べてみる。

私たちが救われたか救われなかったかによって、死後の世界はあまりにも違います。天国と地獄に明らかに分けられるので、救いはこの世のすべての人にとっていのちのような、たいへん尊いものです。神を信じて教会にだけ通っているからといって、誰でも救われるでしょうか。いい加減に信仰生活をしながら、神のみこころに反して生きるなら、天国に行けると保証されることができません。それでは、私たちが救われるためには、どんな信仰を持たなければならないでしょうか。


1. 救われるための信仰

最初の人アダムが罪を犯したので、彼の子孫はみな原罪を持って生まれるようになりました。その上、一生の間、罪を支配している敵である悪魔・サタンに従って、罪を犯しながら生きていけば、すべての人が地獄に行くしかありません。自分なりに正しく生きていると言う人もいますが、真理に照らしてみれば、原罪と自分で犯した罪を持った罪人だからです。
<ローマ3:10>に「義人はいない。ひとりもいない。」とあるように、律法の義に照らしてみるとき、罪がない人は誰もいません。まるで明るい光で部屋の中を照らしてみれば、微細なホコリまで見えるように、神のことばに照らしてみれば、隠された悪が明らかにされるしかないのです。しかも神の御前では、憤り、争い、盗みなど、うわべに現れた罪だけでなく、心の中にある憎しみ、そねみまでも罪になります。
愛なる神は私たちの罪を贖うために、ひとり子イエス様をこの地上に遣わしてくださいました。罪人は必ず死の刑罰を受けなければならなかったのに、イエス様が十字架につけられて死なれることによって、罪人たちの罪の代価を代わりに払ってくださいました。
このことを信じて、イエス・キリストが私たちの救い主であることを心から受け入れるとき、神は私たちの心に賜物として聖霊を与えてくださり、神の子どもとされる特権をお与えになるのです。それで、<ヨハネ1:12>に「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあるのです。
新生児が生まれれば、出生届けを出して戸籍に名前を入れるように、私たちが神の子どもとされれば、天国のいのちの書に名が記されます。つまり、天国の国籍を持った者になるのです。したがって、救われるための信仰、すなわち、信仰の一段階とは、イエス・キリストを受け入れて罪が赦され、神の子どもとされる信仰を言うのです。


2. 聖霊を受けるための信仰

<使徒19:1-2>では、使徒パウロがエペソで幾人かの弟子に「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねます。すると「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」と答えます。弟子たちは、神を信じてバプテスマのヨハネからバプテスマも受けましたが、聖霊について全く知らなかったのです。使徒パウロがイエス・キリストを伝えて、彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、御霊の賜物が現れました。
神は終わりの日に、神の霊をすべての人に注いでくださると約束されました(ヨエル2:28、使徒2:17)。今日そのとおり成就されて、神の霊、すなわち、聖霊を受けた人が集まって教会を形成しました。聖霊を受けてこそ、神の子どもとされることができるからです。
<使徒2:38>に「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」とあります。私たちが福音を聞いて心の戸をあけて、自分が罪人であることを悔い改めて罪が赦されると、神が聖霊を心の中に遣わしてくださいます。聖霊は、イエス・キリストを受け入れて神の子どもとされる特権を得た人に保証として与えられる、神からの賜物です。聖霊を受けてこそ、救われた神の子どもとして天国のいのちの書にその名が記されて、天国の国籍を得ることができるのです。
このように聖霊を受けて救われた信仰を持つ人は、まだ神のためにしたことが何もありません。みことばに聞き従って、罪と戦ってこれを捨てたのでもないし、神の国のために忠実に仕えたり、神に栄光を帰したこともありません。したがって、聖霊を受けるための信仰、すなわち、信仰の一段階は、最も恥ずかしい救いを受けるということです。イエス様が十字架刑にあわれた時に、イエス様を救い主として受け入れたひとりの犯罪人の信仰がこれに当たります。


3. パラダイスに入ったひとりの犯罪人

<ルカ23:33>で、イエス様が十字架につけられたとき、ふたりの犯罪人もイエス様の左右につけられました。この時、ひとりの犯罪人は悪い人々とともにイエス様に悪口を言ってあざけりましたが、もうひとりの犯罪人はむしろ彼をたしなめて、イエス様に信仰を告白します。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と自分のたましいをゆだねます。これにイエス様は「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われました。
ここでイエス様が「パラダイスで彼とともにいる」と言われたのは、犯罪人が救われてパラダイスに入るようになることを言われたのであり、イエス様がパラダイスにおられるという意味ではありません。イエス様はパラダイスを含めてすべての天国の主人なので、このように言われたのです。
パラダイスは恥ずかしい救いを受けた人、すなわち、信仰の一段階に当たる人が入るところで、天国の最も端にあり、報いがありません。その犯罪人はただ正しい良心に従って自分が罪人であることを告白し、イエス・キリストを受け入れて罪が赦されただけで、主のためにしたことが何もないので、パラダイスに入ったのです。この犯罪人は死ぬ前にイエス様を救い主として受け入れて、天国のパラダイスを約束されました。
このように、主を受け入れて聖霊を受けてからあまり経っていない初心の者だけが信仰の一段階に当たるようですが、そうではありません。長い間信仰生活をして、神のことばを知っていながらも、行おうと努力さえしなければ、一段階の信仰にしかなりません。また、信仰が大きいように見えていた人が、ある瞬間、肉の行い(行いで犯す罪)をすれば、信仰の一段階に落ちてしまいます。
ほとんどの聖徒が聖霊を受けた直後は聖霊に満たされて、教えられたとおりに聞き従います。それで、信仰が大きいように見えることもありますが、ある瞬間、世に目を向けて、聖霊に満たされなくなると、再び以前の生活に戻って、世と友になって罪を犯したりもします。これが続ければ、聖なる御霊まで消されて、一段階の信仰を維持することもやさしくありません。
したがって、自分が一段階の信仰なら、さまざまな礼拝と祈祷会、教会の集まりに参加して、熱心にみことばを学んでそのとおり聞き従うことによって、信仰の二、三段階にすみやかに成長させなければなりません。もしみことばどおり生きないで、度々罪を犯せば、天国のいのちの書から名が消されて、救いさえ受けることができないからです。


4. 恥ずかしい救いを受けたある聖徒のケース

天に召されたある聖徒のケースです。以前、自分が病気にかかっていたとき、祈りを受けて健康を回復し、妻も生死の境で祈りを受けて生き返りました。その恵みによって熱心に信仰生活をしながら、自分なりに使命を果たして忠実に仕えました。
しかし、いざこの教会に大きい試練がやって来ると、教会と牧者を守ろうとしたのではなく、サタンにそそのかされて口に出した言葉が神の御前に罪の隔ての壁になり、重病にかかってしまいました。これによって、これまで忠実に仕えて積んできた報いがすべてなくなってしまいました。その上、祈りの力が湧いてこないので、ますます信仰が退歩して、救いさえ受けにくい状態になりました。それでも前に牧者に見ならおうと近づいて仕えた行いが神に覚えられて、臨終直前に悔い改めて祈りを受け、かろうじて恥ずかしい救いを受けました。
このように、神の御前に重要なものは、信仰歴や務めではなく、ただその心がどれほどみこころにかなっているかです。また、聖霊を受けて熱心に教会に通っているとしても、みことばどおり行わないで、神の御前に罪の隔ての壁を積んでいくなら、だんだんと御霊が消されて(第一テサロニケ5:19)、結局、救いとは遠ざかるようになります。
神は「わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」と言われました(ヘブル10:38)。もし信仰が成長していて退歩したなら、どれほどもどかしいことでしょうか。ですから、決して誘惑に陥らないように、目をさましていなければなりません。
もし子どもが歳月が流れても育たないで、そのままでいるなら、親はどれほど心配するでしょうか。同じように、聖霊を受けてからし種ほどの信仰を持ったなら、熱心にみことばを聞いて学びながら、信仰を成長させなければなりません。
イエス・キリストを受け入れて賜物として聖霊を受け、救われたことで満足するのではなく、さらに大きい信仰を持つために、火のように祈って努めますように。信仰の岩を過ぎて御霊の歩みに入り、全く聖なるものとされるまで、罪と血を流すまで戦って捨て、みことばどおり完全に聞き従うことによって、新しいエルサレムに入れる資格を持ちますように。


* まとめと適用

1. 信仰の一段階と関係のないものはどれでしょうか?
①パラダイス ②救われるための信仰 ③聖霊を受けるための信仰
④子どもたちの信仰 ⑤一天層

2. ( )の中に正しい言葉を入れてください。
パラダイスは( )を受け入れて( )を賜物として受けた信仰の( )段階の人が入る場所で、神の国のために労苦したことがないので報いは( )。

3. 神に不従順の罪を犯して、エデンの園から追い出されたアダムとエバは救われたでしょうか? 救われたとしたら、彼らの天国の場所はどこでしょうか?(『地獄』第二章参照)


* 今週の課題

次回は信仰の二段階について学びます。主を受け入れてから心の戦いがあったでしょうか? どんな戦いなのか、またなぜ戦いがあるのか、考えてきましょう。


* 「用語」を知って力にしましょう!

「いのちの書」とは?
「いのちの書」とは、救われた人々の名が記された書物のことを言う。「誰が何年何月何日何時にイエス・キリストを受け入れて、御霊によって新しく生まれ、救われた神の子どもとされた」という内容が記されている。白い御座の大審判の時、一つの証拠資料として使われる。この書物は青い光が漂う明るい白い光を帯びている。

 
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