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主日夕方礼拝 メッセージ > 主日夕方礼拝
主日夕方礼拝
Title
   いやしと答えの公義(2)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   イザ 59:1-2
Date
   2009-12-06


[本文]

[イザヤ59:1-2]
「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」

愛する聖徒の皆さん、次に、いやされるために必要な公義について、新しくもう一つを説明します。メッセージをよく聞いて、これに当たる方がいるなら、自分の問題の原因をよく悟って必ず解決されますように。これから説明する内容は、「気質」的に、すなわち、体質的に弱く生まれた場合です。

人は両親の精子と卵子の結合によって胎内に宿ります。この時、精子と卵子の状態によって、胎児は多くの影響を受けます。たとえば、両親のうちひとりがとてもからだが弱かったり、ある部分が良くなかったりすることがあります。すると、両親の精子や卵子に遺伝的にこのような健康状態が込められて、結局、胎児にも影響を与えるのです。

または、宿る瞬間の環境や条件などが、胎児に影響を与えたりもします。たとえば、酒に酔ったり、薬物などの影響を受けたりしたなら、それが胎児にも影響を与えるのです。それで、宿った瞬間の状況によって、胎児が気質的に弱いこともあるのです。

次に、胎児が母親のおなかにいる間も、さまざまな環境や条件の影響を受けます。たとえば、母親が健康で良い物を食べて、良い空気と環境で過ごしたのと、そうでなかったのとの差が胎児にそのまま現れるのです。それだけでなく、母親が良い思いと良い心で妊娠期間を過ごすか、そうでないかも、胎児に影響を与えます。

このようにさまざまな理由があって、子どもが生まれた時からからだのある部分が「気質」的に弱く生まれることもあるのです。たとえば、目がわりに弱かったり、胃があまり丈夫でなかったり、骨が弱かったりして生まれる場合もあります。または、からだ全体が弱いこともあります。もちろん、反対に、からだに良い影響を与える要因をもって生まれた人は「気質」的に強く生まれます。

聖徒の皆さん、これらはある面では、先祖や親が積んだ罪、または徳によって現れることもあります。先祖や親が積んだ罪によって「気質」的に弱く生まれることもあり、反対に、先祖や親が積んだ徳によって強く生まれることもあるのです。

ですが、今、説明しているのは、そのような場合ではありません。遺伝的、または環境的な要因によって、生まれながら「気質」的に影響を受けた場合です。たぶんこれを聞いて、「ああ、そのとおりだ。」と思う方がおられるでしょう。

ところで、このように「気質」的に弱く生まれた場合、その弱さが生まれてすぐ現れることも、ある程度成長した後に現れることもあります。それなら、このような場合は「生まれつきのものなので、仕方ない」と、あきらめて受け入れなければならないでしょうか? そうではありません。たとえ、このように「気質」的に弱く生まれた場合でも、公義の法則をよく悟って適用するなら、十分に健康になります。
まず、子どもの時は、親の信仰によって子どもの弱い部分が現れることも、現れないこともあります。子どもの時は親の信仰に全面的に影響を受けるからです。
しかし、子どもが成長すると、その時は本人の信仰がますます大きく影響するのです。そして、自分の意志で信仰生活ができる年齢になると、その時からは本人の信仰に応じて影響を受けます。

したがって、子どもが生まれた時から「気質」的に弱い部分があるなら、両親がよりいっそう信仰生活を正しくしなければなりません。子どもも、真理の中を歩むようによく育てなければなりません。そうすると、たとえ弱い部分を持って生まれても、神様に守られるだけでなく、ますます健康になれるのです。

ところが、このように子どもの時はよく神様に守られていたのに、成人してから守られない場合があります。成人しても、続いて神のみことばどおり生きて、光の中に、真理の中にとどまるなら、神様がいやし続けてくださり、結局は完全に回復することができます。一方、成人してから、かえって真理の中に生きられなくて、神様の前に罪の壁を積み上げていくなら、その時になって、「気質」的に弱かった部分が現れたりもします。それでも真理から離れ続けると、ついにその弱かった部分が病気などにつながります。

ところで、ある場合は、「気質」的に弱かった部分が、ひどい心の訓練を受けて現れることもあります。人が訓練を受けて、大変心に苦しみを感じたり、悲しんで心が傷ついたりすることがあります。
たとえば、妻が夫のゆえ、ひどい心の苦しみを受けます。この場合、妻がみことばに従って、心から喜んで感謝するために努力して、何としてでも善をもって訓練を通り抜けなければなりません。

ところが、苦しみを心にためていく人がいます。そうすると、心にたまった苦しみや悲しみが、結局「気質」的に弱い部分に影響を与えて、病気になることもあります。世では、こんな時「夫のせいで心を痛めて、こんな病気になった」と夫を恨みますが、主にあっては、結局、すべてが自分の問題なのです。いくら訓練を受けて苦しんでいても、神の子どもならば、主の教えのとおり、喜んで感謝して、相手を赦して理解しようと努力しなければなりません。

ところが、そうしないで、自分のわだかまりと悪を、心の苦しみと悲しみとしてため込んだので、それが「気質」的に弱い部分に働いて、病気として現れてしまったのです。世でも、「がん」にかからないためにはストレスを受けてはいけないと言われています。ですから、主を受け入れてから、いつも喜んで絶えず祈り、すべてのことに感謝して生きているなら、ストレスやわだかまり、あるいは、自分の悪のゆえ、「がん」のような病気にかかる心配はありません。仮に生まれつき「気質」的に弱い部分があっても、いつも神様に守られ、健康であるのです。

「気質」的に弱く生まれた部分が現れるもう一つの場合は、信仰の選択の瞬間に、信仰を見せることができない場合です。
たとえば、ある人は主を受け入れて信仰生活を正しくしてきたので、たとえ「気質」的に弱く生まれた部分があっても、それが現れないように守られてきました。ところが、ある日、健康検診や何かの診察を受けて、自分に弱い部分があることがわかりました。それまではこのような部分があったにもかかわらず、信仰生活をしながら何の差し支えもなく健康に過ごしてきたのに、いざ自分に弱いところがあると聞くと、その時からはなぜか気になります。それで、良いと言われている健康食品や運動など、世の方法に関心を持ちます。そのようなことが重なって、結局、神様に頼ろうとするよりは、世の方法に頼ろうとする心が大きくなります。

すると、それまでは神様が守ってくださったのに、その時から守ってくださることができなくなります。神様に信仰でゆだねたのではないからです。そのうち、幸いにもこの世の方法でも弱かったところが健康になるならよいでしょう。しかし、そうならず、その時まで守られていて何の問題もなかったのに、何かの病気が生じることもあります。

聖徒の皆さん、たとえ「気質」的に弱く生まれても、神様が守られると、何の問題にもなりません。さらに進んで、みことばどおり信仰生活をしていくなら、弱かった部分がだんだん強くなって、完全になります。
ところが、自分が神様の前に罪を積んだり、真理のとおり行なったりしない場合、それ以上守られることができなくなるのです。全面的に神様の前に信仰をもって委ねられなかった場合も同じです。それで、結局は「気質」的に弱かった部分が病気などのかたちで表に現れるのです。それが公義だからです。

ですから、このような場合は、公義に照らして自分がなぜ守られなかったのかを悟り、その原因を解決して、神様の前に進んで行かなければなりません。そしてそれからは、神のみことばの中に生きていくと、もう一度弱かった部分が守られて、日増しに健康になれるのです。

聖徒の皆さん、場合によっていやしや答えの、公義の基準を満たすためには、それほどの時間と涙の祈り、また、行ないが必要です。複雑にからまって霊的に縛られているきずなを解決するために、善を積まなければならない場合があります。

たとえば、ある人は先祖の悪行が霊的に縛られたきずなになって、事故にあって身体障害者になりました。この時、霊的に縛られているきずなを完全に絶ち切るためには、先祖が積んだ悪行を償うほどの善行を積まなければなりません。

仮に、神様がご覧になって基準になる目盛りがあって、そこまで善を積んだら公義にあって答えてくださる、としましょう。それなら、そこまであきらめないで努力して行なっていかなければなりません。その目盛りに至るまで、時間がどれほどかかるかは、本人にかかっています。先祖の悪行を代わりに悔い改める涙の祈りとともに、心から信仰と善の行ないを積まなければならないし、ひょっとしてでも積んだものを崩してしまってはいけません。これらのことに応じて、答えられるまでの時間が変わってくるのです。そして、ある人は答えに必要な目盛りを満たしていくほど、少しずつからだが良くなるし、ある人は目盛りを完全に満たしたとき、完全になることもあります。

聖徒の皆さん、神様がご覧になる公義と、人が思う公義とは違います。
たとえば、聖徒の皆さんが神様を信じない家族や知り合いの人をお連れして、私に祈りを受ける場合があります。ところが、このように神様を信じない人なのに、私の前に来て、たった一度の祈りを受けて神のみわざを体験する場合があります。このような場合は、その人がたとえ神様を信じてはいなかったとしても、善良に生きてきた場合と言えるでしょう。良い心があったので、伝道する人の話を聞いて、私のことを信頼して出てきたのです。

イエス様が働いておられた時も、イエス様の前にいやされて答えられるために出てきた人は、それでも善良な人でした。当時はイエス様について良くない噂も広がっていました。それでもイエス様が行なう「神の力」を聞いて、イエス様の前に出てきたということは、それだけ彼らの心が善良だったという証拠です。そのような良い心をもって出てきたので、イエス様にいやされて答えられたのです。

このように私の前に来られる方も、私に授けられた神の力を聞いて来られました。「今日、そんなことがどうして起きるのか」と疑ったり、否定したりしたのではありません。聞いたことを信じて、「そんな方がいるなら、その前に行って祈りを受ける」という良い心で来られたのです。

神様はそのように良い心できたこと自体を信仰として認めてくださいます。それが神様の前でいやされるための公義を満たしたのです。ですから、一度の祈りでいやされて答えられることがあるのです。もちろんその人が一気に答えられたからといって、大きい信仰が直ちに与えられるのではありません。ですが、その人に良い心があって、いやしのみわざを体験したなら、それからは神様の前に信仰を積み上げていけるのです。

しかし、このような場合もあります。ある人は、信仰があるという人なのに、私の前に来て祈りを受けても、答えられないのです。実際、信仰があるといって来たなら、教会に通っていない人より、はるかにすみやかに答えられて当然です。それなのに答えられなかったなら、信仰があるといっても、むしろ信仰のない人よりも心の善が足りない場合があります。
このような人は、いくら「祈ってくだされば、いやされると信じます」と告白して祈りを受けても、公義にあって答えられるのがやさしくありません。もちろん、このような場合も、過ぎ去った日の誤った信仰生活を悔い改めて、立ち返って祈りを受ければ、いくらでも答えられるのです。

[結論]

愛する聖徒の皆さん、きょうの本文[イザヤ59:1-2]に「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」とあります。

私たちと神様との間に罪の壁が仕切りとなっている時は、神様がいくら答えたいと願われても、その答えが私たちにまで届くことはできません。したがって、いやしや問題解決の答えは、まさに私たちと神様との間を仕切っている罪の壁を壊すことから始まります。

ところが、この罪の壁が自分ひとりだけの問題でなく、他の人と縛られている場合があると言いました。それもなかなか壊しにくいほど、大きくて厚い罪の壁が仕切りとなっている場合があります。

しかし、いくらからまった糸でも、一つ一つ結び目をほぐしていくと結局、解けます。もちろん、どれほどからまっているかによってかかる時間は違います。けれども、いくら罪の壁が積まれて、簡単に答えられにくい場合でも、その壁を壊し続けて、善を神様の前に積み上げていくと、結局は必ず答えられます。

聖書を見ると、のろわれた病気の代名詞といえるハンセン病にかかった人も、イエス様の前に出てきていやされた記述があります。誰でも罪を悔い改めてきて、信仰で祈りを受けるなら、いやされて答えられます。

したがって、まだいやされていなくて、答えられていない方がいるなら、神様にできないことがあるのでもないし、神様が私に授けられた力が足りないのでもないことを悟るべきです。まだ必要な公義の基準を満たしていなかったからです。しかし、変わらずに善なる神様を信じてゆだねて、神様の前に求め続けるなら、神様が定められた公義の基準が満たされます。

さらに本教会では、皆さんが答えられるために満たすべき公義が、霊の空間の中ではるかにすみやかに満たされることもあります。まだいやされていなくて、答えられていない方であっても、このような神様の大いなる恵みがあることに感謝して、信仰と感謝を持って祈られますように。すると、いつも私たちに良いものを与えたいと願われる愛の神様の恵みと祝福がもっと満ちあふれるでしょう。皆さんすべてがそれを体験する主人公になられますよう、主の御名によって祝福して祈ります。

 
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