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ヨハネの手紙第一講解 メッセージ > ヨハネの手紙第一講解
ヨハネの手紙第一講解
Title
   ヨハネの手紙第一講解 (21)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   ヨハⅠ 3:4
Date
   2011-05-22


[本文]

[ヨハネの手紙第一3:4]
「罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。」


愛する聖徒の皆さん、「第一ヨハネ講解」二十一回目です。
前回に続き、罪の赦しと答えの公義について説明いたします。本文[第一ヨハネ3:4]に「罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。」とあります。このみことばどおりに、罪を犯して不法を行なえば、必ず公義に従ってさばかれます。各人が罪を犯して不法を行なえば、敵である悪魔・サタンの訴えの種になって、試練や患難にあいます。罪を悔い改めて立ち返れば、神が試練と患難を退けて、病気や災いから回復させてくださいます。
ところが、神の公義はあまりにも多様で、ケースが数えきれないほど多いです。同じ罪を犯したように見えても、その結果として現われる災いは人によって違うし、解決される過程も人によって多様です。
ある場合は、自分の罪によるものだけでなく、先祖が犯した罪までも含めて、代価を払わなければならないこともあります。長い間信仰生活をしていても、霊肉ともに大いに妨げられることもあり、切に祈っているのに、ほかの人より答えと祝福を受けにくいこともあります。その中で、偶像礼拝やまじないなどで先祖が神に直接立ち向かったケースがあり、そんなことはなくても、人に大きい悪を積んだケースがあります。この悪がひどくて線を越えれば、自分はもちろんその子孫にまで悪い影響を及ぼすと言いました。
前回は、そのうち代表的な二つのケースを説明しました。精神的、情緒的な障害のゆえ、罪の意識や罪責感が感じられないケースと、闇の影響を受けて、非常に否定的に考えるケースでした。
しかし、先祖がどんな罪を犯したとしても、あるいは自分がどんな罪を犯したとしても、そのため気を落としなさいと、このようなメッセージを伝えているのではありません。神は一寸の誤差もない公義に従ってすべての罪と悪を測られますが、これと同時に、大きい愛とあわれみを持っておられる私たちの父でもあられます。
皆さん自身が神の御前にへりくだって、善を積みに積めば、道が開かれます。それで、神のかたちに似せられたまことの子ども、御霊の人になれば、どんな問題でも解決できるのです。霊肉ともに思う存分祝福されて、神に栄光を帰すことができるでしょう。
愛する聖徒の皆さん、聖書に出てくる女性の中で、天国で一番栄えある座に至った人は誰か、皆さんは知っているでしょう。マグダラのマリヤです。このマグダラのマリヤは、聖書を見ると、七つの悪霊につかれていたとあります。実際にマグダラのマリヤに悪霊がついていたのではありませんが、そう言われるほどみじめな境遇でした。マリヤの両親と家族が偶像を拝んで神から完全に離れたので、家庭に多くの呪いが臨んで、複雑にからまった問題がいっぱいでした。
マリヤはこのように偶像礼拝のゆえに呪われた家庭で生まれて、霊的に最悪の環境で育ちました。それにいろいろな病気で外見も醜く変わって、衰弱したら、家族や周りの人にもさげすまれて軽んじられました。
ある人はこのような苦しみにあえば、毒々しい心をいだいて、悪を現します。ですから、世の荒波にもまれれば、身と心が頑なになって荒々しくなると言われています。しかし、マリヤはそんな苦しみにあっても、心に悪いものを植えつけないで、自ら善を選んでいきました。良いことを思って、良い行ないをしようとしました。相手の立場で理解して、仕えようとしました。
そのように善を積んでいて、いよいよイエス様に出会ったとき、大いに恵みを受けたのです。すべての病気が一瞬で治って、すべての呪いの絆が断たれて、霊的にも最も栄えある座に至る祝福を受けることができたのです。
レビ部族もこのようなケースに当たります。レビはヤコブの三男で、自分の妹に害を加えた部族に復讐するために、数多くの人を残忍に殺しました。このことのゆえ、子孫まで呪われるようになりました。
ところが、エジプトから出たイスラエル民族全体が、金の子牛の偶像を拝んで神に立ち向かったとき、レビの子孫は神の側に立ちました。神の命令どおりにそれぞれ剣を取って立ち上がって、偶像を拝んで姦淫した自分の親戚と隣人を断固として処罰したのです。
[出エジプト32:29]に「そこで、モ-セは言った。『あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。」とあります。このみことばのように、神はレビ部族を特に聖別されて、代々に神に仕える使命を与えてくださいました。先祖の罪のゆえ子孫まで呪われたが、子孫が決断して神についたとき、劇的に反転したことが見られます。呪われた部族がかえって霊的に大いに祝福されたのです。
また、詩篇を見ると、何か所かに「コラの子たちによる歌」、あるいは「コラの子たちの賛歌」と書いてあります。詩篇の半分ぐらいはダビデの賛歌で、「アサフ」という人も数篇を記しましたが、このふたりとともに、「コラの子たち」も詩篇を記しました。
ここで「コラ」という名前は、皆さんもよく聞いて知っている名前です。つまり、神の人モーセに逆らって、神の御怒りを買ったので、生きながらよみに下った人の名前です。コラがさばかれたとき、コラの天幕の下の地面が割れて、コラと彼に属する者はもちろん、その家族、持ち物までも一緒によみに下りました。
ところが、[民数記26:10-11]には、「そのとき、地は口をあけて、彼らをコラとともにのみこみ、その仲間は死んだ。すなわち火が二百五十人の男を食い尽くした。こうして彼らは警告のしるしとなった。しかしコラの子たちは死ななかった。」とあります。コラが大きい悪を行なって、その家族がみな神に呪われたのに、子たちは生き残りました。彼らは神の側に立って、肉の父に従わなかったのです。しかも罪を犯した父と家族の滅びを見て、心の奥深く刻んだはずですから、その後、どれほどもっと良い生き方をしようとしたでしょうか。このように自分で善なることを選んだので、命を救っただけでなく、むしろ災いが祝福に変わって、その子孫は詩篇を記す霊的な祝福までいただくようになったのです。
子どもが親の影響を受けるケースには、先天的な知的障害や自閉症もあります。前回は、先祖が悪をひどく行なったり、偶像礼拝をひどくした時も、知的障害や自閉症、うつ病などが子孫に表れると言いました。そのように、先祖の悪によるケースもあるし、遠い世代の先祖でなく、親と直接つながっているケースもあるということです。
たとえば、妊娠中に母親が深い絶望や挫折によって心に深い悪をいだいたとか、親が神をひどく冒涜する言葉を口にしたことが、胎内の子どもに影響を与えたのです。このような場合は、親が神との間に積んだ罪の隔ての壁を壊してこそ、子どもの問題が解決されるのです。この時も、親が御霊の歩みに入れば、もっと答えられやすいでしょう。
愛する聖徒の皆さん、たとえ子孫が先祖の影響を受けたとしても、その公義の適用には多様な変数があります。父方の先祖が多くの悪を積んだが、母方は良い気質を持っていることもあります。それで、母親の影響をもっと受ければ、父親のほうの悪い先祖の影響をあまり受けないこともあります。
同じ親から生まれた子どもでも、先祖や親の影響を受けた程度には違いがあります。親が信仰を持つ前、世で悪い生き方をしていた時に宿ったのか、信仰を持った後、主にあって宿ったのかによって、気質が違うことがあります。親が信仰を持ったとしても、訓練を受けて苦しい時に宿ったのか、でなければ、聖霊に満たされている時に宿ったのかによる違いもあるのです。
まして、人間耕作が始まって以来、今まで約六千年が流れてきましたが、どれほど多くの先祖の人生が続いたでしょうか。子孫が先祖の影響を受けるとき、それに応じる公義の適用も、多様になるしかありません。先祖代々、悪をたくさん積んできたとしても、ある世代でその悪の絆が断たれることもあります。
たとえば、よくあるケースではないのですが、先祖代々積まれた罪の隔ての壁がある人でも、自分なりに持っている少しの善があって、恵みによって殉教することもあります。あるいは、福音は知らなかったとしても、国のために命をささげたり、大きい良い行ないを積むこともあります。このように善を大いに積んだ時は、先祖から積んできた呪いの絆を断ってしまうので、その子孫がむしろ恵みを受けるようになる幸いなケースもあります。
愛する聖徒の皆さん、前回、神の公義はとても多様で、ケースバイ・ケースで適用されると言いました。たとえば、行ないとしては同じ罪を犯したとしても、そのゆえに受ける懲らしめは、人によって違いがあります。人の目で見ると同じ罪ですが、神がご覧になる時は、罪の重さが違うのです。
詳しく説明しましょう。AさんとBさん、ふたりが同じ不法を行なったとしましょう。Aさんはふだんから神を愛して、真理の中にとどまろうと努力しました。しかし、あまりにもお金に困って、「ちょっとだけ使ってから返しておけばいいから、このぐらいは大丈夫だろう」と、神の財政を流用しました。しかし、すぐ御霊がうめかれるのを聞いて、神の御前に心を引き裂いて悔い改めます。そのこと一つだけ悔い改めるのでなく、自分の中からむさぼりと偽りの性質自体を捨てるためにあがきます。そうしながら、神に喜ばれようと以前より熱心に善を行なっていきます。
一方、Bさんは自分なりに信仰生活をしているといっても、心の割礼はおろそかにしました。自分の益を求めて、そねんだりねたんだり、人をさばいて罪に定める言葉、高ぶった言葉をむやみに口から出したりしました。そのうち、ある瞬間むさぼりが生じて、公金を流用しましたが、懲らしめられるのでないかと怖くなります。真理を聞いてそうしてはいけないとも知っていて、そのゆえに災いにあう人も見たからです。それで、すぐ悔い改めるといってへりくだったように見えても、あまり経たないうちにそれを忘れてしまいます。へりくだって慎む心も薄れて、また以前のような姿で、思うまま悪を現しながら生きていきます。
このように、同じ罪でも心が違うなら、各自に適用される神の公義も違ってくるしかないのです。軽い懲らしめですぐ終わる人がいるかと思えば、大きい訓練を長い間受ける人もいます。あるいは、表に現れる災いはないけれど、心の訓練をひどく受けることもあります。時には、もともと心の良い人で、罪から徹底的に立ち返ったのに、ほかの人よりひどい訓練が伴うこともあります。これは、その人がよりすばらしい天国に入るのに、一つでも訴えの種が残らないように、徹底的に代価を払うように神がなさるのです。
このように多様な事例がありますが、善であれ悪であれ、人のすべての行ないには、細やかな公義の法則が正確に適用されます。[第一テモテ5:24-25]に「ある人たちの罪は、それがさばきを受ける前から、だれの目にも明らかですが、ある人たちの罪は、あとで明らかになります。同じように、良い行ないは、だれの目にも明らかですが、そうでないばあいでも、いつまでも隠れたままでいることはありません。」とあります。報いか罰、災いか祝福、祈りの答えなど、すべてが一寸の誤差もなく、神の法則に従って与えられるのです。
愛する聖徒の皆さん、罪の隔ての壁を壊して、答えられるのに助けになるようなもう一つのケースを、ある人をたとえにして説明いたします。
この人は過去、多くの肉の行ないを犯しましたが、罪を全部悔い改めて赦されました。真実な心で悔い改めて立ち返ったので、神もその悔い改めを受けられて、心に恵みは回復しました。それなのに病気がいやされないで、ずっと苦しまなければならないのです。罪が赦されて救われること以上に、もっと大きい答えを受けるためには、もっと深い段階の悔い改めが必要なケースです。
この人が犯した罪は、傷もしみもない神がご覧になるとき、とても大きくて重い罪です。それによって大きい訓練を受けたので、心がへりくだって、涙と鼻水を流しながら魂を砕いて罪も告白しました。真実に悔い改めたので、恵みも臨んで、救いの確信もあります。その後からはそのような罪を犯さないで、真理の中にとどまって熱心に信仰生活をしています。
このように自分なりに悔い改めはしましたが、長い間大きい罪と悪に染まって生きていたので、心が鈍くなったところがありました。本当に罪がどんなに汚れて醜いもので、自分がどんなに神の心を痛ませたのか、切々と悟ることはできないのです。この人が訓練を最後まで信仰によって受けて、この上なく低くへりくだった心になれば、もっと心の奥底から魂を砕いて悔い改めるようになります。「私は本当に悪かったんだ。その罪がこんなに醜くて汚れたものだったんだ。私は神様にひどく立ち向かったんだ」と、切々と心から悔い改めるようになるのです。そのような悔い改めさえあれば、どんな問題も解決されます。どんなことでもおできになる創造主の神の最上の力が体験できるし、生命線を越えたとしても、生き返れるのです。
聖徒の中に、長い間祈ってきたのに、いやされていない方々がいます。その中には、自分が過去に積んだ罪と悪が重いだけでなく、先祖から積んできた罪と悪も大きくて、救われることさえやさしくないこともあります。それでもこの教会に来て、主を受け入れて救われるようになった恵みだけでも感謝すべきところです。
しかし、このような方も、神が「あなたは救われることはできるが、それ以上何も答えられない」と定めておかれたのではありません。罪の隔ての壁が壊されることも、祈りの答えも、祝福も、結局は自分自身にかかっています。過去に積んできた罪と悪が重いなら、その分、徹底的に悔い改めればよいでしょう。また、移り変わる心と、認められなくてむなしいと思う心、頑なな心を捨てて、心を変えさせて御霊の歩みに入りさえすればよいのです。それさえできるなら、この教会で現われる神の力で答えられないことがないでしょう。
この続きは次の時間に伝えます。

 
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