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Title
   十字架のことば(12)  
Speaker
   堂会長 イ・ジェロク 牧師
Bible
   マコ 15:16-20
Date
   2005-06-12


<本文>

<マルコ15:16- 20>
「兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、 それから、『ユダヤ人の王さま。ばんざい。』と叫んであいさつをし始めた。また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。 彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。」


<序論>

愛する聖徒の皆さん、またアメリカ、カナダ、ホンジュラス、ペルー、アルゼンチン、ドイツ、フランス、ロシア、ベルギー、オランダ、そしてケニア、ウガンダ、コンゴをはじめとするアフリカ諸国と中国、日本、パキスタン、インドネシア、フィリピン、台湾、インド、モンゴル、エジプトをはじめとして,全世界と全国の2500余りの支教会の聖徒の皆様、支聖殿の聖徒の皆様、全世界でインターネットを通して礼拝をささげているすべての聖徒の皆様、<教会学校の子供の皆さん>、視聴者の皆様。
今日は、十字架の道の十二番目の時間として、十字架のご摂理についてみことばを語ります。
神様の御子イエス様は、罪人たちを救うために、この地に来られました。罪人たちを救うためには、罪人たちが受けなければならない刑罰、つまり、「死」という刑罰をイエス様が代わりに受けなければならなかったのです。
それでイエス様は、多くの苦しみを受けて、結局十字架にかけられて亡くなられました。このようにイエス様が苦しみを受けられたので、私たちは罪の赦しを得るようになりました。そして罪による呪いから解き放たれ、神様の祝福の中で生きるようになりました。
ところが、私たちは漠然と、イエス様が私たちの罪を赦してくださったことだけ知るのではなく、どのように贖ってくださったのかを、具体的に悟らなければなりません。そうする時、私たちのために苦しみを受けられたイエス様を、より一層心の奥から愛して、さらに力ある信仰生活ができるようになります。
この間までは、イエス様が家畜の飼葉おけに寝かされて、貧しくなられた摂理と、むちに打たれて血を注ぎ出された摂理を説明しました。
今日は、イエス様が頭に茨の冠をかぶられた摂理について語りたいと思います。語られるみことばを通して、愛する聖徒の皆さんは、私たちのために茨の冠をかぶられた主の愛を、さらに深く悟られるようにお願いします。そして、その豊かな愛の中で、御国の扉に向かい、もっと力強く走って行ける皆様になられますように、主の御名で祈ります。

<本論>

愛する聖徒の皆さん、イエス様は神様の御子であり、王の王であり、主の主として、栄えある冠をかぶられるのにふさわしいお方です。
ところが、イエス様がこの地でかぶられた冠は、金や宝石で飾られた栄光の冠でなく、鋭い茨の冠でした。
今日の本文<マルコ15:16- 18>に、「兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、 それから、『ユダヤ人の王さま。ばんざい。』と叫んであいさつをし始めた。」とあります。
イスラエル地方の茨は、とても長くて硬いトゲを持っています。ローマの兵士たちは、このトゲのある枝で、人の頭より若干小さい冠を編んで、これをイエス様の頭の上に押しつけてかぶせました。その長くて硬いトゲが、容赦なくイエス様の頭に食い込むと、皮膚が破れる苦しみとともに、イエス様の顔は血に染まりました。
それでは、なぜ神様は、愛するひとり子イエス様に、こういう茨の冠をかぶらせたのでしょうか?それは、人が思い通して犯す罪を赦してくださるためでした。
人の心に非真理があるために、真理に逆らう非真理の思いが浮び上がって、悪い感情を抱くようになります。人を嫌って、そねみ、ねたみ、裁き、罪に定めます。他人のものをほしがったり、淫欲を抱いたりもするし、うわべでは敬うふりをして、心では無視してさげすんだりする場合もあります。
こうして思いと心で罪を抱くので、結局は行いにまで至るようになります。世の中では、いくら悪い思いと心を持っていても、行わなければ罪とは言いません。
しかし、聖書では心に罪を抱いたり、思いで罪を犯したりすることも、すべて罪だと言われています。
<マタイ5:28>には、「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」とあります。
また<ヨハネ第一3:15>にも、「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」とあります。
実際に兄弟を殺したりしなかったとしても、心をご覧になる神様の前では、憎むことだけでも、すでに人を殺した罪になります。
イエス様が茨の冠をかぶられて、血を注ぎ出された理由は、このように思いで犯す罪までも赦してくださるためでした。このようなことを信じて罪の赦しを得た人は、思いと心までも聖められて変えられなければなりません。

愛する聖徒の皆さん、
皆さんが思いを通して罪を犯さないためには、まず「思い」について知らなければなりません。
人の頭には知識を入れて活用することができる記憶装置があります。人が生まれてから見聞きして学んだ多くのことが、感じとともに入力されます。これが知識です。このように入力された知識が、必要に応じて再生されて出ることを「思い」と言います。
ところが、生まれて育ちながら入力された知識は、人によってすべて違います。成長した環境が違い、学んだことが違います。もし、同じ環境で同じ人に教わったとしても、それぞれどんな感じで受け入れたのかが違います。
このように知識が違うので、人によって価値観も違って、善と悪とを裁く基準が違います。同じ状況に置かれても、知識を引き出して思う内容も、各々違うようになります。
例えば、同じ場面を見ても、ある人は「嫌だ、悪い」と思うけれど、他の人は「良い、美しい」と思うこともあります。ある国では教養ある行いとして認められることが、他の国では無礼な行いだと非難されることもあります。
このように、人によって思いが違うだけではありません。世の人々の思いは、神様の真理に合わないことがほとんどです。肉の人々の思いをつかさどるのは、神様の敵であるサタンだからです。
最初、アダムがエデンの園に住んだ時、アダムには真理の知識だけがありました。神様が真理だけを教えてくださったからです。その時、アダムは思いも、真理の思いだけでした。
ところが、アダムが罪を犯してからは、アダムの心から真理の知識が抜け出て、代わりに非真理の知識が入ってきました。愛して仕えて理解しなさい、という真理の知識の代わりに、憎んで欲を求めて高まろうとする、非真理の知識が入りました。
サタンは、人の心にある非真理をつかさどり、神様の御心に逆らって自分の思いどおりに働きかけていきます。 例えば、自分の同僚が成功して、多くの人々に褒められたら、サタンはそこで非真理に働きかけて、悪い思いを持つようにさせます。「あの人が一人で功を立てたわけでもないのに、一人でほめられている」と文句を言ったり、「私も同じように苦労しているのに、なぜあの人だけが認められるのだろうか、私は何だろう」と、気を落としたりもします。
その人に真理の知識だけがあるなら、そうしないはずでしょう。サタンが思いをつかさどらないので、「あの人が褒められて良かった、私もさらに熱心に努力しなければ」と、真理を喜びます。
また、相手が気に入らない行いをする時、非真理が働くと、「あの人はとても利己的で無礼だ」と裁いて、「あんな人とは口もききたくない」と悪い感情を抱きます。
心にむらむらと湧き上がってくる憤りを我慢するために、苦労したりもします。しかし真理の知識を持っていると、相手の悪い行いを見ても、裁いたり怒ったりするのではなく、「あの人には何かの理由があるのだろう。私が理解しなくては」と思うはずです。

聖徒の皆さん、
人が真理の知識だけを、自分の中に入れてきたなら、真理だけを思います。
しかし、人が生まれてから非真理の知識を積んで生きてきたので、その非真理が再生されて出る思いも、結局は非真理になるしかありません。
皆さんが神様を信じてからは、まず、知識を真理に変えていかなければなりません。それでこそ思いもまた、真理の思いに変えられます。
たとえば、傷んだ材料で料理を作れば、結局傷んだものが出来るしかないので、新鮮な料理を作るなら、材料を新鮮なものに変えなければなりません。
そのように、心にある知識を真理に変えてこそ、思いも真理に変えられるのです。そのためには、神様のみことばを一生懸命に聞いて、霊の糧にしなければなりません。霊とまことによって礼拝をささげて、ただ「はい」と「アーメン」で心に受けて、自分を変えていかなければなりません。皆様がそうしていくなら、誰でも速かに霊に入れます。
ところが、ある人々は神様のみことばを聞く時、自分の思いに合うと、「アーメン」ですが、自分の思いと合わないことがあれば、「それは違います」と言います。「低くなって仕える者は高められる」と言っても、「高められようと努めても高まるのが難しいのに、仕えて低くなるのはとてもできない」と思います。「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」と言うと、「それなら、この世をどう生きていくのか?」と言います。
全知全能な神様は、真に仕える者を高めてくださり、みことばに聞き従う人を祝福されます。しかし、人は自分の知識と経験に合わないので、みことばが信じられなくて、神様の御心に逆らって思いをするようになります。

このように、神様の御心に逆らう思いを、「肉の思い」と言います。人に「肉の思い」をさせるのは、まさにサタンです。聖書には、ペテロが肉の思いを働かせて、イエス様に叱られた場面があります。イエス様が、将来神様のご摂理の中で十字架を背負われることを言われると、ペテロは、「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、 あなたに起こるはずはありません。」といさめ始めました。
ペテロは悪い意図でそう言ったのではありません。愛するイエス様が亡くなられるのを願わなかったので、もどかしい心で言ったのであり、人が聞くと、善良で正しいことのように聞こるかもしれません。
しかし、イエス様は「あなたが私を愛するから、そう言うのでしょう」と言われたのでなく、「下がれ、サタン。 あなたはわたしの邪魔をするものだ。 あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と言われました。
このみことばは、ペテロに「サタンだ」と言われたのではなく、ペテロに神様の御心に逆らって思うように、肉の思いを働きかけているものが、サタンのしわざだということを悟らせてくださいました。
肉の思いは、肉の人の立場からは、賢くて善なるものだと考えられるかもしれません。しかし<ローマ8:7>に、「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」とあります。肉の思いは神様と敵になることであり、したがって神様とは何の関係もなくなります。肉の人が見て、いくら賢くて良く見えると言っても、肉の思いを働かした時は、神様と何の関係もありません。
皆様が肉の思いを破ってこそ、無から有を創造する霊的な信仰が持てます。肉の思いを捨ててこそ、神様の心と御旨がわかって、神様を喜ばせることもでき、神様の御わざを体験することもできます。神様の御力は人の知識と思いを超えており、神様の知恵と知識は人が推し量ることはできないのです。私たちが肉の思いを働かさずに、聞き従いさえすれば、限りのない神様の権能を常に体験できます。

愛する聖徒の皆さん、
私は初めて神様に出会って以来、肉の思いを働かして、神様のみことばを疑ったことが一度もありません。私が7年間病気だった時、どんな医師も私の病気を直してくれませんでしたが、神様は瞬間に私を直してくださいました。薬を飲んだのでもなく、手術を受けたわけでもないのに、神様の宮に出て、ひざまずいた瞬間、すべての病気が一度に癒されました。
このように、私自身が全能なる神様を体験したので、聖書のすべてのみことばが全部信じられました。イエス様が死んだ人を生かして、病気にかかった者を直されたというと、そのまま信じられました。全能なる神様が天地を創造して、太陽と月の動きを止められて、葦の海を分けられたということも、そのまま信じられました。
このようにすべてのみことばを信じたので、私は聖書に書かれたすべての神様の命令も守り行うことができました。また全能なる神様を信じたので、どんな苦しい状況に置かれても、ただ祈りで神様だけにすがり、拠り頼みました。そうする時、神様は人の能力と想像を超える、驚くべき御わざを必ず起こしてくださいました。

本教会の働き人と聖徒の中にも、肉の思いを働かさずに全能なる神様にだけ頼ることで、権能の御わざを体験した方がたくさんいます。
例えば、去る1997年、本教会のある聖徒さんは、遠くに住んでいる姉が農薬中毒で病院に入院していることを聞きました。
当時、神様を信じなかったお姉さんが、猛毒の農薬を飲んだそうです。この農薬は毒性があまりにも強くて、少量を飲んでも、百パーセント死ぬようになり、解毒剤もないと言われました。口の中と食道、胃腸がひどく痛んだことはもちろん、肺、肝臓、腎臓などが腐りかけていました。病院に入院はしたものの、医者も何の対策もなく、長くても15日の命だと言われました。
こういう状況でその聖徒は、激しい苦しみの中で死だけを待っていたお姉さんを訪ねて、熱心に伝道しました。イエス・キリストと全能なる神様を伝えました。そして、本教会に今まで現れた、数多くの神様の御わざを伝えました。
ついにお姉さんは心の扉を開いて、患者服のまま、私がいた所まで遠くから訪ねて来ました。私がその方の信仰を見て祈ってあげると、その翌朝、その方に驚くべき御わざが現れました。
ひどかった痛みがすべて消えただけでなく、精密検査の結果、腐りかけていたすべての内臓器官が、正常に回復したというのです。農薬がはねて左の目にも入り、失明すると言われたのに、祈りを受けた後、目もきれいに癒されました。
もし、この方が肉の思いを働かしたなら、「猛毒の劇物で中毒した人を、教会でどうやって直せるのか?」と思ったはずです。 しかし、この方は肉の思いを働かさずに、「祈りを受ければ私は生きる」と、神様がご覧になる時、そのみこころに適うように思いました。
そして、御前に出てきた時、神様はその信仰をご覧になり、権能の御わざを体験するように、働いてくださいました。しかもこの方は、私の祈りを受けた後、結婚して21年経って子供をさずかる祝福も受けました。
私たちが肉の思いを働かせずに、ただ神様にだけ頼るなら、神様は必ず働いてくださいます。問題は、人が肉の思いを働かすので、神様にだけ頼らずに、人の知恵と方法を使うことです。

愛する聖徒の皆さん、
人の理論と知識の中で、神様のみことばを信じられないように妨げて、聞き従えないようにさせる思いは、すべて肉の思いです。
ところが人々は数えきれないほど、肉の思いの中で生きています。ですから、皆が神様に対して反抗するようになったのです。
このように肉の思いを通して、神様に対して反抗するようになった私たちの罪を赦して、私たちを救われるために、イエス様は茨の冠をかぶられました。
それでは、このような恵みを受けた私たちは、いったいどうすれば良いでしょうか?
<コリント第二10:5>に、「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、」とあります。このみことばのとおり、私たちはさまざまの思弁を打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにして、キリストに服従させなければなりません。
すなわち、神の知識に逆らって立つ肉の思いを捨てるべきで、今まで正しいと思ってきた知識も、神様のみことばに外れることはすべて捨てなければなりません。そうしていくうちに、皆様の思いは真理の思いになり、神様のみこころに適う思いに変えられるようになります。
ところが、思いを通して犯す罪を捨てるためには、根本的に心が聖められなければなりません。もう少し具体的に言うと、肉の欲と目の欲と暮らし向きの自慢を捨てれば良いのです。<ヨハネ第一2:16>に、「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」とあります。
心に悪があって世の中を追う属性が満ちている時は、いくら真理を思おうとしても、肉の思いが浮び上がります。肉の欲があれば、世の欲が良く見えて、そういうことを追い求めて、手に入れることを願います。
<ガラテヤ5:19 -21>に、「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」とあります。肉の欲があるために、こういう肉の行いを行いたがるようになるのです。

次に、目の欲とは、目で見て耳で聞くことを通して心が動きはじめ、肉のことを追い求めさせる属性のことです。このような目の欲があるために、人々はますます世の中の欲を追い求めていくようになります。
また暮らし向きの自慢とは、「現実のすべての享楽を追い、自分を高くするために自慢しようとする属性」です。暮らし向きの自慢により、自分が高くなって認められようとし、名誉と権勢などを求めるようになります。心からこのような肉の欲と目の欲、暮らし向きの自慢を捨てれば、思う時も肉の思いでなく、神様が喜ばれる霊の思いができます。

愛する聖徒の皆さん、
イエス様は私たちのために茨の冠をかぶられたので、私たちは将来天国に行って良い冠をかぶるようになりました。
天国の冠にも色々な種類があります。この世でも、ある競技が開かれた時、参加者全員に与える参加賞があるかと思えば、特別賞もあって、金、銀、銅メダルなど、順位によって与える賞があります。
そのように、天国で皆様が受ける冠も、この地でどんな人生を歩んだのかによって、色々な種類に分けられます
例えば<コリント第一9:25>には、「また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」とあります。ここで、「朽ちない冠」とは、主を迎え入れて、真理を聞いて、罪と戦って捨てようと努めた人に与えられます。
また<ペテロ第一5:4>にある、「栄光の冠」とは、罪と戦って捨ててみことばを守り行い、神様に栄光をささげた人に与えられる冠です。
次に<ヤコブ1:12>と<黙示録2:10>には、「いのちの冠」があります。この冠は、神様を愛して死ぬまで忠実になり、悪はどんな悪でも捨てて聖められた人に与えられる冠です。そして使徒パウロのように完全に聖められて、その上、神様を喜ばせる信仰を持って、使命をよく果たした人々は、<テモテ第二4:8>にある「義の栄冠」を受けるようになります。
また<黙示録4:4>には、天国の長老たちがかぶる「金の冠」が記録されています。この時天国の長老とは、この地で長老の職分を持った人々のことではありません。神様がその信仰を認められる長老として、完全に聖められて、全家を通して忠実であり、永遠に変わらない純金のような信仰を持った人々のことです。
このように神様は、神様の子供たちがこの地でどれくらい聖められたのか、どれくらい忠実だったのかによって、それぞれ違う冠をくださいます。
ところが、特に「義の冠」や「金の冠」は、神様の御前に最も認められる人々に与えられます。このような冠を受けた人々は、天国で太陽のように輝く栄光を受けるようになります。
イエス様が苦しみの茨の冠をかぶられたので、私たちが思いを通して犯す罪を贖われただけでなく、将来天国で、私たちがこのように良い冠をかぶるようにしてくださいました。
愛する聖徒の皆さんは、このようなイエス様の愛を悟り、思いで犯すすべての罪を捨ててしまうようにお願いします。また、みことばを疑うようにさせ、聞き従わないように遮る、すべての肉の思いを徹底的に壊すようにお願いします。
それで、ただ神様が喜ばれる霊の思い、善良な思いだけになり、神様のみことばに完全に聞き従うことによって、毎日神様の御わざを体験する皆様になられるようにお願いします。

<結論>

愛する聖徒の皆様、視聴者の皆様、
<テモテ第二4:8>に、「 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」という、使徒パウロの告白があります。再び来られる主を慕っているすべての人に、義の冠をくださるということです。
それでは、皆様は私たちの主が再び来られることを、果たしてどれほど慕っているでしょうか?皆様が本当に、再び来られる主を慕っていると言うなら、一日でも早く、花嫁の用意を終えなければなりません。花婿が花嫁を迎えに来たのに、花嫁がまだ用意が出来ていなくて、婚宴に入れないというなら、その花嫁が切実に花婿を待っていたとは言えません。
皆様も完全に聖められて聖なる心となり、モーセのように、全家を通じて忠実な者となり、新しいエルサレムに入る資格を備えた時でこそ、「主よ、早く来てください」と心から告白できるようになります。
まさに、こういう人々こそが義の冠を受け、天国でも最も光栄ある美しい場所に入ることができます。

愛する聖徒の皆さんは、一日でも早く、花嫁の支度を成し遂げて、花婿になられた主を迎える準備を終えるようにお願いします。
それで、まもなく主が皆様を迎えに来られる時には、最も栄えある冠を受けて、とこしえに神様に感謝と栄光をささげる皆様になられますように、主の御名で祈ります。

 
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